《オーストラリア生死の旅―9》
つづき⋯⋯

前回の文章で、冤情者(好兄弟)たちは旧暦の七月の期間に、因果応報輪廻の交代者をさがしに来る、或いは私たちに助けを求めるとお話ししました。そして、旧暦の七月の最後の日は、身寄りのない霊たちもみなあの世に帰り自分の任務を報告しなければいけません。どうして身寄りのない霊たちがいるのだろう?と皆さんは好奇心で思うかもしれません。実際、時に私たちが知っている身寄りのない霊たちは、川や人が少ない場所にいます。例えば、気持ちが落ち込んで自殺したり事故に遭った人、或いはお腹に胎児がいる時に体に障害があるのがわかり、両親がこの胎児を中絶した場合、これも水子霊の恨みをかいます。この世を去る時、誰も天に導いてくれませんので、身寄りのない霊となってこの世にうろうろしています、実は生前に人に陥れられたり、他殺されたりした、これらの冤情者たちはチャンスが訪れるのを待つ、時期が来たら地獄の閻魔様にお願いすれば、冤情者たちに指令を与え、相手を探し復讐することができます。ですので、輪廻を避けるためにも悪い道を歩かないでください。もし冤情者たちがそう願う場合、冤情者たちはいろいろな方法を探し行動します。冤情者たちの願望が達成した時、この世にいる人が一人冤情者にとりつかれ、体の調子が悪くなったり運が悪くなったりします。この世の人はこのような問題が起きると廟に行って、神様の代言者、高明な先生或いは道士のところに助けを求めます。例えば、指令を持っている、神様の代言者と先生たちは冤情者と会話することができ、冤情者たちの要求を聞くことがで きるので、その時に冤情者たちに適した助けを与えることができます。例えば、成仏させるための法要を行う、或いは神様のそばで修行して求め、円満に功徳を得ることができれば、時期が適した時に生まれ変われます。以上書いた内容は私の経験談です、この文章を皆さんにシェアしたいです。つづく⋯⋯
まだ続きがあります。ご期待を~

《オーストラリア生死の旅-8》

つづき…
前回の文章では私がベッドでお昼寝をしている時まででした。睡眠中にある夢を見たのです。一般的に私たち修行する人は、自分の霊がよく走り出していくことがあります。そこで私たちは睡眠薬や睡眠安定剤などを服用するには適さないのです。私が昼にお札の水を飲んだ後、この夢を見ました。夢の中では私はその時自分がいる部屋🏠の中、その中🏠の場所をはっきりと見ることができます。でも、その時はどこにいるのかよく覚えていないのです。
部屋🏠の入口に一人のよく知らない女性とその他の人が見えました。この人たちの顔はぼんやりとしてはっきりわかりません。ただ覚えているのは、私の前にいる人はある女性で、この女性はむりやり私と他の人たちに入り込もうとしてきます。あの時は本当に緊張しました😓。幸いにも私はその状況を処理する力があったので、抵抗することができたのです。当時私は自分の手に一本の法器(長い柄のついた神様の道具)が突然現れたのを覚えています。法器の上にはお札がありました。そしてこの法器を突然この女性に向けました。私に向かってくる代わりに彼女に出ていくよう叫びました。しかしこの女性はずっといて、私は彼女と対抗し、彼女を建物🏠の屋上に行かせました。
なぜなら、彼女が別の人を傷つけることが怖いからです。屋上で私たちはしばらく対峙して、私は神様にお願いして、神様のまじないの言葉で、彼女にここから離れなければならないと教えました。この功徳が彼女に回向し、私が唱えている途中に、この女性は突然飛んだ後に倒れ落ちて下に去っていきました。その後ちょっと見直しに行ってみたら、彼女の影姿は見当たらず、確実に離れていったことが確認でき、私は安心して部屋🏠の中に入りました。部屋🏠の中に入ると、突然私の愛する夫が私に向かって叫んでいるのが聞こえました。ゆっくり目を開けると、私の目の前に夫が立っているのが見えました。夫は私に、長い間何度も呼び続けたけれど私は目を覚まさずとても心配して、幸いにも私が目を覚ましたので、夫も安心しました。私はゆっくりと起き上がり、夫と外で食事をするため出かけました。あの日はちょうど旧暦の八月初日のお昼、私は悟りとも感じる大きなことに気が付きました。本来は冤情者(好兄弟)たちは旧暦の七月の期間に、因果応報輪廻の交代者をさがしに来る、或いは私たちに助けを求めるということです。
つづく……
まだ続きがありますよ!どうぞ離れないでくださいね…

皆さん、こんにちは! 毎年この日は、しっぽが生える日(お誕生日)なので、自分にはこんなにも沢山のお友達やお客様が支持して頂き、ご愛顧していただいてるのかが身にしみてわかります。それに、私を祝福し、関心を持ってくださっています!皆さんにはとてもとても感激して、感謝しております!
私はただの平凡な人間に過ぎませんが、天から授かった非凡な使命と力を、私は大変感激しています。この一生のうちに皆さまとご縁を結ぶことができ、これからもずっと、生きとし生けるものを助けていくことができますように、皆さまに感謝しております!そして皆さまを愛♥しています!
お祝いのお言葉をいただき、一人一人にお返事するのが難しいので、どうぞ皆様ご了承ください!この場をお借りして、皆さんに「ありがとう🙏!ありがとう🙏!」 と申し上げたいです。どうぞ皆さんが平安で何事も順調でありますように!お体が健康でありますように!幸福と喜びに溢れますように!

皆様こんばんは!本日午後4時過ぎ、台湾鉄道プユマ号が転覆する事故が発生しました。その画面を見るととても苦痛に感じ、しかも全身に鳥肌が立ちました。それほどこの災難はとても深刻なものだったのです。このような災難は一般的に死傷者があるものですが、今現在ですでに亡くなった人が十数名いることが分かっているそうです。まだ現場では負傷者の救出作業が続けられており、私も皆さまの平安と順調を神様にお願い申し上げました!災い転じて福となりますように!負傷者の方々の平安と順調、そして早く回復されますように!往生者の方々が苦しみから解放され、安らぎを得て浄土へ行くことができますよう、西方の極楽世界へ往生することができますように!更に皆様が平安、健康でいられますように!

@@負傷者が多い為、輸血の貯蔵量が不足していることと思います。皆様、どうか袖をまくって献血に参加してください。負傷した方々を助けることも、功徳を得る機会のひとつです!皆様ありがとうございます!

《オーストラリア生死の旅―7》

続き⋯⋯

前回の文章で、私はご飯を全く食べなかったので、私の血糖値は29(オーストラリアの正常値はどのくらいか分かりませんが)まで下がりました。自分の血糖値がこんなに低いのを見て、びっくりしました!私の血糖値は今までこの数字まで下がったことがありませんでした。看護婦さんがすぐに食パンを一食分の量(2枚)・バターを小2パック・イチゴジャムを小2パックと緑色の飲み物を私にくれました。その1杯の緑色の飲み物は何のために飲むのかわからなかったです?体が弱っていたので、写真を撮って皆さんに見せることも忘れてしまいました。😭看護婦さんがそれらを持ってきてくれたので、私はお腹が空きすぎていたかもしれません、すぐに食パンにバターとジャムを塗って食べて、その緑色の飲み物も飲みました。味は少し炭酸水に似ていました。朝食を1人前食べ終わり、自分の体に体力が戻ってきた感じがし、体がだんだんポカポカしてきて、血糖値もすぐに上がり、40以上に跳ね上がりました。そうこうしていると主人と安妮(アニー)さんが病院に来ました。安妮(アニー)さんは美味しい食べ物(ベジタリアンの饅頭、ベジタリアンのインスタントスープご飯⋯)をたくさん持ってきてくれ、私にくれましたが、残念なことに私はあまり食欲がありませんでしたので、彼女に私のためにベジタリアンのインスタントスープご飯を作ってくれるように頼みました。
ここ数日ご飯や温かいスープ🍲を飲んでいなかったので、病人の私にとってはすごく美味しく感じました。私たちは退院の件でお医者さんが来るのを待っていました。この病院のお医者さんたちはみなとても若く、お医者さんが私たちに退院してもいいことを告げると、私はすぐに元気が出てきました。私たちは退院の手続きを待ち、お昼には私は主人と安妮(アニ―)さんといっしょにホテルへ帰ることができました。しっかり歩くことはまだできませんでしたが、主人がずっと私の手を引いて歩いてくれたので、私はゆっくり歩きました。倒れるのがとても怖かったので、主人と手を繋いで私もとても安心できました。主人は私のために、私が息切れするのを恐れ、主人は平地にあるホテルに泊まれるように手配をしてくれました。私たちが泊まった1日目のホテルは坂の上にあり、その時私は本当に歩くと息切れがしました。加えてその晩私は危篤状態に陥ったので、主人はまた私をそのホテルに泊まらすことができませんでした。主人と安妮(アニ―)さんがまだ建設途中のとても新しいアパートホテルを探し、退院した後に二泊するアパートホテルを用意してくれました。私はこのアパートホテルはとても便利だと感じましたし、一番のポイントは設備がすべて新しいことです。ただベット🛏️の高さがちょっと高かったです。私はよく息切れするので、ベットは私にとって比較的重要です。そしてこのホテルの一日目の夜に、私はホテルに帰った後、最初にまず私の宝物である-お札を使い、私は主人にもお札の水を作ってあげました。今回のことで主人は本当にびっくりしたので、お札の水を使った後すぐに私たちはベットで昼寝💤をし、私は主人の呼ぶ声で目が覚めました。続く⋯⋯面白いのは後の方になりますよ!皆さん、もうしばらくお待ちくださいね。

《オーストラリア生死の旅―6》

つづき…

前の文章ではオーストラリアの病院の救急病棟に運び込まれ、その晩は本当に苦しくてよく眠ることができなかったというところまでお話いたしました。私は小さい時から大きくなってもなお本当に病院嫌いだったのですが、有名な権威のあるお医者様や看護師の方と親交を深めるご縁があったばかりに、だんだんと病院を嫌わなくなってきていました。救急病棟でのことに話を戻しますと、私の意識はすでにだんだんとはっきりしてきていて、目が覚めるとオーストラリアの病院が非常に清潔で、しかもみんなとてもしっかりと防護を施しており、少しもいい加減にしていないと感じてました。彼らの病院の中は強烈な薬の臭いはせず、しかも彼らは病人のそばに近寄る度に透明の防護服を身に付 け、とてもよいビニール手袋をはめ、また使い終わった防護服や手袋はすぐに捨てていました。台湾も彼らのように、病人や医療に携わる人をしっかり守り、また、病院は恐い所だと人々に思われないように、つまり病院は薄暗くて陰気な感じをなくし、人々に安心感を与えるようでなくてはなりません。最初の晩は救急病棟で様々な検査を受け、二日目の朝、主人と添乗員さんが病院に訪れてくれました。しかも私が大好きなソーセージを持ってきてくれたのですが、残念なことにまだ具合が悪かった😭せいで少ししか食べることができませんでした。添乗員さんは朝ツアー客をゴールドコーストへ連れて行かなければならなかったので、彼は私たち夫妻の為にガイドさんをもう一人探してきてくれました。アニーさんという私たちと同じ台湾人の方でした。私たち夫妻は、添乗員の林本堂さん、及びガイドの王さん(David)には大変感謝🙏しております。なぜなら非常に優秀で非常に善良で思いやりのあるアニーさんを私たちに紹介して下さったのですから。彼女は翻訳や私たちのお世話を引き受けてくれ、私は彼女に心から感激していました。病気で寝込んでいたときから私たちの飛行機✈️の時間まで、アニーさんはずっと私たちに付き添ってくれていました。そして、私も彼女のことを妹として迎え入れることに決めました。
オーストラリアの病院で二日目となった夜、私は上の階にある個室の病室に移されました。一人で部屋にいるのは本当に寂しかったですが、時折看護師さんが訪れて、お腹は空いていませんか?と尋ねてくれました。彼女たちはみんな笑顔で私に話しかけてくれ、本当に素晴らしく本当に可愛らしいと感じられました。ただ、ここに入院するのは本当に高くて、一晩約2千オーストラリアドル(5万台湾ドルほど)もするのです。では三日間もオーストラリアの病院に入院したら、いったいいくらかかるのか、皆さんは知っていますか?私は3日目には辛抱することができませんでした。なぜなら、彼らの食事は本当に食べ慣れることができなかったのです。朝食はパンとバター、ジャム、そして紅茶でした。昼食、夕食とも牛肉とマッシュポテトと一杯の紅茶で、彼らの出すスープも味が濃くドロドロしすぎていて飲み慣れることができませんでした。白いご飯もなく、私は牛肉を食べないのですから。ですので、食欲がなかったため、血糖値は下がり、私はとても衰弱していました。続く・・・

@@@さらに素晴らしいお話はこの後ですので、どうぞお見逃しなく~

《オーストラリア生死の旅―6》

つづき…

前の文章ではオーストラリアの病院の救急病棟に運び込まれ、その晩は本当に苦しくてよく眠ることができなかったというところまでお話いたしました。私は小さい時から大きくなってもなお本当に病院嫌いだったのですが、有名な権威のあるお医者様や看護師の方と親交を深めるご縁があったばかりに、だんだんと病院を嫌わなくなってきていました。救急病棟でのことに話を戻しますと、私の意識はすでにだんだんとはっきりしてきていて、目が覚めるとオーストラリアの病院が非常に清潔で、しかもみんなとてもしっかりと防護を施しており、少しもいい加減にしていないと感じてました。彼らの病院の中は強烈な薬の臭いはせず、しかも彼らは病人のそばに近寄る度に透明の防護服を身に付 け、とてもよいビニール手袋をはめ、また使い終わった防護服や手袋はすぐに捨てていました。台湾も彼らのように、病人や医療に携わる人をしっかり守り、また、病院は恐い所だと人々に思われないように、つまり病院は薄暗くて陰気な感じをなくし、人々に安心感を与えるようでなくてはなりません。最初の晩は救急病棟で様々な検査を受け、二日目の朝、主人と添乗員さんが病院に訪れてくれました。しかも私が大好きなソーセージを持ってきてくれたのですが、残念なことにまだ具合が悪かった😭せいで少ししか食べることができませんでした。添乗員さんは朝ツアー客をゴールドコーストへ連れて行かなければならなかったので、彼は私たち夫妻の為にガイドさんをもう一人探してきてくれました。アニーさんという私たちと同じ台湾人の方でした。私たち夫妻は、添乗員の林本堂さん、及びガイドの王さん(David)には大変感謝🙏しております。なぜなら非常に優秀で非常に善良で思いやりのあるアニーさんを私たちに紹介して下さったのですから。彼女は翻訳や私たちのお世話を引き受けてくれ、私は彼女に心から感激していました。病気で寝込んでいたときから私たちの飛行機✈️の時間まで、アニーさんはずっと私たちに付き添ってくれていました。そして、私も彼女のことを妹として迎え入れることに決めました。
オーストラリアの病院で二日目となった夜、私は上の階にある個室の病室に移されました。一人で部屋にいるのは本当に寂しかったですが、時折看護師さんが訪れて、お腹は空いていませんか?と尋ねてくれました。彼女たちはみんな笑顔で私に話しかけてくれ、本当に素晴らしく本当に可愛らしいと感じられました。ただ、ここに入院するのは本当に高くて、一晩約2千オーストラリアドル(5万台湾ドルほど)もするのです。では三日間もオーストラリアの病院に入院したら、いったいいくらかかるのか、皆さんは知っていますか?私は3日目には辛抱することができませんでした。なぜなら、彼らの食事は本当に食べ慣れることができなかったのです。朝食はパンとバター、ジャム、そして紅茶でした。昼食、夕食とも牛肉とマッシュポテトと一杯の紅茶で、彼らの出すスープも味が濃くドロドロしすぎていて飲み慣れることができませんでした。白いご飯もなく、私は牛肉を食べないのですから。ですので、食欲がなかったため、血糖値は下がり、私はとても衰弱していました。続く・・・

@@@さらに素晴らしいお話はこの後ですので、どうぞお見逃しなく~

《オーストラリア生死の旅―5》

つづき…

前の文章では、私は担架に乗せられ、酸素マスクをつけられ、CPRも施されました。意識がもうろうとした状態でオーストラリアの病院の救命隊の方なのかお医者様が、私に薬を二粒飲ませてくれました。そして何かの注射もされました。いずれにしろ、病院の救急病棟に着くまで、意識はもうろうとしたままでした。病院に着くと、すぐさま注射を打って検査をしました。言葉が通じない上に、検査やら何やらで私の命はもう半分しか残っていないような状態でした。幸いにも私のLINEには、主治医の陳育民主任(台北栄民総醫医院胸腔內科主任及肺癌学会理事長)と、もう一人台北の林森北路で開業している、弟のような強強(薬剤師の謝さん)の連絡先がありました。普段から主治医の陳主任と謝さんは、私の体調の状態をよくわかっていらっしゃるので、その二人と運よく連絡が取れ、この私の二人の貴人(助け人)はオーストラリアの病院の医師に説明をして下さったおかげで、鬼門が閉まる直前に助けられました。本当にお二人のおかげで命拾いをしました。主治医の陳育民主任と謝さん、大変感謝しております。🙏その時、オーストラリアの時間で夜の8時30分くらいだったのですが、私の検査はずっと夜中の1時近くまで続きました。主人とガイドさん、そして添乗員さんは検査の結果が出るまで待っていてくれました。コンピューター断層検査で、何ら問題が無いとわかったので、みんな比較的安心しました。主人と添乗員さん、ガイドさん達がお疲れで悪いので、私は皆に先にホテルに戻って休んでください、と言いました。私は大分状態は良くなったので、一人で病院にいても、救急病棟の医師や看護師さんたちが沢山いるので心配しないでといったので、ようやく主人はあまり安心したとは言えずにホテルに戻ってくれました。その夜病院で一人でいた時は、あまり良く眠れませんでした。医師や看護師たちが代わる代わるやって来るので、なかなかゆっくりできませんでした。多分私がアジア人だったからなのでしょう、とても親切で笑顔で😊接してくれました。あの方たちにも、本当に感謝しています。私は体中に心電図をとる道具を貼られ、寝返りを打とうにも打てませんでした。トイレに行くのもままならない状態だったので、尿をとる袋をつけてもらいました。この状態は、私が手術をした時よりも深刻だったのです。私の心臓は苦しくて息が思うようにできませんでした。翌日の朝までそんな状態が続いていたのです。 ~つづく…

数日書いている《オーストラリア―生死の旅》の文章は、しばらくお休みさせていただいて、皆さんの食欲をそそる、美味しい物を皆さんにシェアしたいと思います。

母の誕生日🎂に、特別に母を連れて台北市で一番おいしいmy灶レストランの魯肉飯を食べに来ました。このレストランの名前『嘜走(出ていかないで)』は本当にいい名前です。レストランの料理はすべて昔ながらの味で、ミシュラン推薦のレストラン🍴です。今から料理が出てきますよ!

《オーストラリア―生死の旅ー4》

続き…
以前の文で私がベッドに入ったところまではお伝えしましたね🛏️その後、布団をかぶった途端、私は突然何の予兆もなしに身震いしはじめました。この時私は急に抵抗することができなくなり、ただ彼らの言いなりになるしかありませんでした。私が知らず知らずのうちに、まず考えたのは、愛する息子・智鴻(彼は台湾にいます)にLINEすることでした。この時、台湾時間は夜の6時頃で、私の震える声が愛する息子・智鴻に伝わり、神様のご加護を得られるようにお願いしました🙏その時、彼は私の声が聞こえたことを怪しく思い、彼もまた緊張しはじめました。けれども、遠くの水で近くの火を消すことができないように、彼はどうすればいいのか分かりませんでした。言い終わった後も、私はまた天公様(玉皇大帝様)と神々に助けを求めました🙏この時、私は震えで話すこともできなくなり、心臓もほぼ止まりかけていました。もうまく息ができなくなっていたので、ずっとここで死にたくないと思っていました。この時、私は意識がはっきりしなくなっており、つらいつらいつらいと言っている時に、ベッド🛏️を一つ隔てた場所で寝ていた愛する主人が突然私の声を聞きつけました。まるで彼を呼ぶ声があるかのようでした。もし、この声が彼を呼んでいなければ、もしいつも彼と眠る習慣がなければ、彼を呼び起こすことはできなかったかもしれません。幸いにも、愛する主人が起き上がってくれました、感謝します🙏神様が私の救いの声を聞き届けてくれたのでしょう。この時の状況は本当に本当に火急で、これは誰にも想像つかないことだと思います。正直にいうと、あと5分遅ければ、私はオーストラリアで命を落としていたかもしれません。主人はベッドから起きた時に私の様子を見て、死ぬほどびっくりしました。彼が後に語ったことによれば、私の顔色は紫に、唇は黒くなっていたそうです。私たちが夫婦になってもう21年になりますが、これまで私のこんな様子を見たことがなかったそうです。私が大きな手術で集中治療室から出てきた時も含めて、私のひどい様子を初めて見ました。この時は彼はこの上なく驚き慌てて、ガイドさんに連絡しようとしましたが、オーストラリアの国番号をどうやって打てばいいのか忘れていました。彼は私を招待してくれた張さん(蘭姉さん)が隣に泊まっていたことに気付き、急いで蘭姉さんに知らせに行きました。ちょうど蘭姉さん一行はスーパーの買い物から帰って来たばかりで、私の様子を見ると彼女も驚いて、急いでガイドさんを呼びに行ってくれました。ガイドさんが私のために夜食として買ってきたものを持っていかれました。本当に申し訳ありませんでした!加え て、感謝いたします🙏蘭姉さんとガイドさんのおかげです。みんなは言葉が通じなかったので、ガイドさんが来てくれた時もすぐに救急車を呼んでくれたので、救急車もすぐに来てくれて、みんなで慌てて私を担架に乗せてくれたのです…続く…